1910年代前期

(1910〜1914)

 

    第4期 反動期(2)――党統一のための闘争、新しい上げ潮、バルカン戦争(1910〜1913)

 

    ◇パリ総会と党統一の前進

 「『プラウダ』編集部から」(『プラウダ』第10号、1910年2月12日)

    【資料】「パリ総会の諸決議(『プラウダ』第10号、1910年1月)

 「党の道へ」(『プラウダ』第10号、1910年2月12日)

    【資料】レーニン「統一に向かって」(1910年2月13日)

 「ロシアの生活から」(『プラウダ』第10号、1910年2月12日)

 「統一のために」(『プラウダ』第11号、1910年3月18日)

 「統一へ――あらゆる障害を越えて!」(『プラウダ』第12号、1910年4月3日)

    【資料】レーニン「党の統一に対する障害の一つ」(1910年4月26日)

 「ウィーン党維持派社会民主主義クラブの決議」(1910年4月17日)

    【資料】レーニン「政論家の覚書」(1910年5月25日)

 「『プラウダ』から思考する労働者への手紙――真の道はどこにあるか?」(『プラウダ』第14号、1910年6月24日)

 

    ◇コペンハーゲンの国際社会主義大会

 「コペンハーゲンの国際社会主義大会によせて」(『プラウダ』第12号、13、14号、1910年4月3日、5月15日、6月24日)

 「協同組合と社会主義」(『プラウダ』第15号、1910年8月1日)

 「隊列を密にして新しい課題へ」(『プラウダ』第16号、1910年9月24日)

 「赤い議会」(同)

 

    ◇ロシア政治の新しい展開と好況への転換

 「1月9日」(『プラウダ』第9号、1910年1月1日)

 「黙っていることはできない」(『プラウダ』第9号、1910年1月1日)

 「フィンランドの選挙」(『プラウダ』第10号、1910年2月12日)

 「心臓への打撃」(『プラウダ』第11号、1910年3月18日)

 「国会とともにか、国会なしでか」(『プラウダ』第11号、1910年3月18日)

 「次は何か」(『プラウダ』第12号、1910年4月3日)

 「メーデー」(『プラウダ』第12号付録、1910年4月3日)

 「メーデーによせて」(1910年5月1日)

 「クーデターの権利」(『プラウダ』第13号、1910年5月15日)

 「フィンランドの終焉?」(『プラウダ』第14号、1910年6月24日)

 「観察者の覚書」(『プラウダ』第14号、1910年6月24日)

 「好況に向かって」(『プラウダ』第16号、1910年9月24日)

 「観察者の覚書」(『プラウダ』第17号、1910年11月20日)

 

    ◇党内情勢と党統一のための闘争

 「ロシア社会民主党」(『フォアヴェルツ』、1910年8月28日)

    【資料】レーニン「若干の社会民主主義者がロシア社会民主労働党の党内事情をインターナショナルに知らせているやり方について」(1910年9月25日)

 「ロシア社会民主党の発展傾向」(『ノイエ・ツァイト』、1910年9月9日)

    【資料】レーニン「ロシアにおける党内闘争の歴史的意味」(1910年末)

 「『プラウダ』のアンケート」(『プラウダ』第16号、1910年9月24日)

 「われわれの友人たちへ」(『プラウダ』第16号、1910年9月24日)

 「国会議員団とわれわれの党」(『プラウダ』第17号、1910年11月20日)

 

    ◇インテリゲンツィアと文化

 「インテリゲンツィアと社会主義」(1910年11月)

 「トルストイ」(『プラウダ』第17号、1910年11月20日)

    【資料】レーニン「エリ・エヌ・トルストイ」(1910年11月16日)

 「インテリゲンツィアについて」(1912年3月4日)

 「ゲルツェンと西方」(1912年3月29日)

 

    ◇バルカン半島の社会民主主義

 「ブルガリアとセルビアの社会民主主義」(1910年)

 「ロシア革命(ソフィア演説)」(1910年7月12日)

 「バルカン問題と社会民主主義」(『プラウダ』第15号、1910年8月1日)

 「ブルガリアの大会から――ソフィアからの手紙」(『プラウダ』第15号、1910年8月1日)

 

    ◇テロリズムと挑発者の肖像

 「ダイナマイトの爆弾とプロレタリアートの箒――テロリズム、挑発、革命」(『プラウダ』第9号、1910年1月1日)

 「エヴノ・アゼーフ」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1911年5月8日)

 「テロリズム」(『カンプ』、1911年11月1日)(English

 「幻滅した奨学生の文献(メニシチコフとバカーイが語る自画像)」(1912年5月10、11日)

 「ガルティングとメニシチコフ」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1914年6月21日)

 

    ◇ロシア政治の新しい高揚

 「わが国の状況とわれわれの課題」(『プラウダ』第18/19号、1911年1月29日)

 「迫りくる大詰め」(『プラウダ』第20号、1911年4月16日)

 「ロシアの労働者とユダヤ人の無権利」(『プラウダ』第20号、1911年4月16日)

 「ツァーリズムの囚人に自由を」(『プラウダ』第20号、1911年4月16日)

 「ロシアの憲法14条」(『カンプ』、1911年6月1日)

 「『政治は個人に依存しない』」(『プラウダ』第22号、1911年11月16日)

 「何ものも彼らを救いはしない」(『プラウダ』第23号、1911年12月10日)

 

    ◇全党協議会のための闘争

 「全党協議会基金のためのウィーン・クラブ決議」(1910年11月26日)

    【資料】レーニン「ロシア社会民主労働党中央委員会のロシア国内委員会への手紙」(1910年12月半ば)

    【資料】レーニン「党内事情について」(『ソツィアール・デモクラート』別刷り版、1910年12月23日)

    【資料】レーニン「ユードゥシカ・トロツキーの恥じらいについて」(1911年初め)

 「全党協議会のために!」(『プラウダ』第18/19号、1911年1月29日)

 「『諸君は無駄な努力をしている!』」(『プラウダ』第18/19号、1911年1月29日)

 「分派からの解放」(『プラウダ』第18/19号、1911年1月29日)

 「党を建設しなければならない!――社会民主主義と社会的諸大会」(『プラウダ』第20号、1911年4月16日)

 「オーストリア情勢」(『プラウダ』第20号、1911年4月16日)

 「架空の反対者との対話」(『プラウダ』第20号、1911年4月16日)

 「問いと答え」(『プラウダ』第20号、1911年4月16日)

 「ロシア社会民主労働党に対する在外グループの陰謀」(『プラウダ』第21号、1911年6月25日)

 「ヨーロッパにおけるロシア語の労働者新聞」(『プラウダ』第21号、1911年6月25日)

 

    ◇団結の自由と請願カンパニア

 「団結の自由と請願カンパニア」(『プラウダ』第21号付録、1911年6月25日)

 「前進せよ!」(『プラウダ』第22号、1911年11月16日)

    【資料】レーニン「トロツキーの外交につき、ある党員たちの一政綱について」

 「大きな一歩」(『プラウダ』第23号、1911年12月10日)

 「請願カンパニアに関する『プラウダ』のアンケート」(『プラウダ』第23号、1911年12月10日)

 「再び請願について」(『プラウダ』第23号、1911年12月10日)

 「原則と偏見――団結の自由のための闘争の問題によせて」(『ナーシャ・ザリャー』第5号、1912年5月)

   【資料】レーニン「現在『団結の自由』のスローガンは労働運動の基礎となりうるか」(『ラボチャーヤ・ガゼータ』第9号、1912年7月30日)

 

    ◇第4国会選挙のための闘争

 「差し迫った問題」(『ナーシャ・ザリャー』第11号、1911年11月)

    【資料】「トロツキーの論文に関する『ナーシャ・ザリャー』編集部のコメント」(『ナーシャ・ザリャー』第11号、1911年11月)

 「政治的書簡――わが国に憲法はあるか?」(『ジヴォーエ・デーロ』、1912年2月22日)

 「選挙カンパニアの諸問題」(『プラウダ』第24号、1912年3月14日

    【資料】レーニン「ロシアにおける再投票と労働者階級の任務」

 「ドイツの選挙の教訓」(『プラウダ』第24号、1912年3月14日)

 『社会民主党は何を望んでいるか』(1912年4月)

 

    ◇レナ虐殺事件とメーデー

 「レナ虐殺事件とプロレタリアートの回答」(『プラウダ』第25号、1912年4月23日)

    【資料】レーニン「1912年1月のロシア社会民主労働党全国協議会のスローガンとメーデー運動」(『ソツィアール・デモクラート』第27号、1912年6月4日)

 「メーデーによせて」(『プラウダ』第25号付録、1912年4月23日)

 「人民の武装と人民に対する武装」(『プラウダ』第25号付録、1912年4月23日)

 

    ◇プラハ協議会と『プラウダ』の終焉

 「党に対する強襲」(『プラウダ』第24号、1912年3月14日

    【資料】「ロシア社会民主労働党全党協議会(プラハ協議会)決議」(1912年1月)

 「同志たち!」(『プラウダ』第24号、1912年3月14日)

    【資料】レーニン「党に反対する解党派」(『ソツィアール・デモクラート』第26号、1912年4月25日)

 「党と民族組織――全党協議会によせて」(『プラウダ』第24号、1912年3月14日)

 「ロシアの党生活から」(『フォアヴェルツ』、1912年3月26日)

    【資料】レーニン「『フォアヴェルツ』の匿名氏とロシア社会民主労働党の事情」

 「キエフの同志たちへの公開状」(『プラウダ』第25号、1912年4月23日)

 「レーニン派『中央委員会』への質問」(『プラウダ』第25号、1912年4月23日)

 「われわれは回答を待つ」(『プラウダ』第25号、1912年4月23日)

 「全党員への訴え」(『プラウダ』第25号付録、1912年4月23日

    【資料】フレデリック・コーニー「トロツキーとウィーン『プラウダ』」

 「統制下」(『ジヴォーエ・デーロ』、1912年4月28日)

 

    ◇8月ブロック

 「ロシア社会民主労働党諸組織協議会(ウィーン協議会)決議」(1912年8月)

    【資料】レーニン「非合法党と合法活動」(『ソツィアール・デモクラート』第28/29号、1912年11月5日)

 (組織委員会)「ロシア社会民主労働党諸組織協議会の通報前文」(1912年9月)

 (組織委員会)「選挙政綱」(1912年8月)

    【資料】R・C・エルウッド「党協議会招集の技術」

 

    ◇第1次バルカン戦争

 「最初の印象」(1912年9月26日)

 「宣戦が布告された…」(1912年10月14日)

 「諸政党と戦争」(1912年10月15日)

 「戦争について」(1912年10月24日)

 「戦争参加者の言葉から」(1912年11月4日)

 「ブルガリアとロシアの外交」(1912年11月9日)

 「後発諸国にて」(1912年11月18日)

 「ブルガリアの議会制度」(1912年11月19日)

 「矛盾のかたまり」(1912年12月13日)

 「セルビアとモンテネグロ」(1912年12月21日)

 「ある師団の歴史から」(1912年12月25日)

 「諸政党」(1912年12月30日)

 

    ◇ロシア反動の政治的シルエット

 「血に飢えた不名誉なこと――ストルイピンについて」(『プラウダ』第22号、1911年11月16日)

 「社会民主党政綱に関する『ロシア』紙の論評」(『ルーチ』、1912年9月18日)

 「ミリュコーフ」(『ルーチ』、1912年9月22、23日)

 「ニコライ2世」(1912年)

 「グチコフとグチコフ主義」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年10月6日)

 

    ◇社会民主主義者の政治的シルエット

 「パーヴェル・ジンガー」(『プラウダ』第18/19号、1911年1月29日)

 「伝説を清算するために――編集部への手紙(フルスタリョーフ論)」(『ルーチ』、1913年3月21日)

 「ヴィクトル・アドラー」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年7月13日)

 「ドブルジャヌ・ゲレア」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年9月3日〜13日)

 「ゲオルギー・ザムイスロフスキー」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年10月25日)

 「エヌ・イ・ピゴロフ」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年12月6日)

 

    ◇『ルーチ』における「党統一のための闘争」

 「プチロフ労働者への回答」(『ルーチ』第15号、1912年10月3日)

 「ドイツ社会民主党について」(『ルーチ』第16号、1912年10月4日)

 「労働者出版物を労働者の統制下に!」(『ルーチ』第26号、1912年10月16日)

 「統一に関する手紙」(『ルーチ』第27、39号、1913年2月2、16日)

 「カール・カウツキーとわれわれの意見の相違」(『ルーチ』第54、55、66号、1913年3月6、7、20日)

 「質問への回答」(『ルーチ』第76号、1913年3月31日)

 「チヘイゼへの手紙」(1913年4月2日)

 

    ◇第2次バルカン戦争

 「ミリュコーフ氏への議会外からの質問」(『ルーチ』、1913年1月30日)

 「バルカン戦争と社会民主主義」(『ルーチ』、1913年3月14、15日)

 「ブカレスト講和」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年7月28日)

 「労働者政党」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年9月12日)

 「改良について」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年9月17日)

 「内的破局への道」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年9月21日)

 「ブルガリアの危機」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年11月2日)

 

    ◇第4国会

 「『苛酷な雰囲気』」(『ルーチ』第60号、1913年3月13日)

 「予算と労働者階級」(『ルーチ』第69、71-73、78、82号、1913年3月23、26-28日、4月3、9日)

 「国家自由主義は援助しないのか?」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年10月15日)

 「いかにして権力を健全化するのか?」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1914年2月15日)

 

    ◇ユダヤ人問題

 「ユダヤ人問題」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1913年8月)

 「ベイリス事件」(『ノイエ・ツァイト』、1913年11月)

 

    ◇『ボリバ』の闘争(1)――党統一のための闘争

 「労働者新聞」(『セーヴェルナヤ・ラボーチャヤ・ガゼータ』第11号、1914年2月21日)

 「『ボリバ』編集部から」(『ボリバ』第1号、1914年2月22日)

   【資料】レーニン「八月ブロックの分解」(『プーチ・プラウドィ』第37号、1914年3月15日)

 「議会主義と労働者階級」(『ボリバ』第1号、1914年2月22日)

 「国会議員団の分裂」(『ボリバ』第1号、1914年2月22日)

   【資料】レーニン「統一の叫びに隠れた統一の破壊」(『プロスヴェシチェーニエ』第5号、1914年5月)

 「労働者の団結」(『ボリバ』第3号、1914年4月9日)

 「統一の諸問題」(『ボリバ』第3号、1914年4月9日

   【資料】レーニン「統一」(『プーチ・プラウドィ』第59号、1914年4月12日)

 「労働者出版物」(『ボリバ』第4号、1914年4月28日)

 「統一の友人たちへ」(『ボリバ』第5号、1914年5月16日)

 「『フペリョート』派の同志たちの手紙について」(『ボリバ』第5号、1914年5月16日)

 「統一のための闘争とマルクス主義的中心」(『ボリバ』第7/8号、1914年7月6日

 「マリノフスキー事件によせて」(『ボリバ』第7/8号、1914年7月6日)

 「編集部から」(『ボリバ』第7/8号、1914年7月6日)

 

    ◇『ボリバ』の闘争(2)――第4国会をめぐる闘争

 「歴史的10年(1904〜1914)」(『ボリバ』第1号、1914年2月)

 「国家と国民経済」(『ボリバ』第2号、1914年3月18日)

 「3月の結果」(『ボリバ』第4号、1914年4月28日)

 「国会のロックアウト」(『ボリバ』第5号、1914年5月16日)

 「現今のスローガン」(『ボリバ』第5号、1914年5月16日)

   【資料】イアン・サッチャー「トロツキーと『ボリバ』」

 

    ◇古い世代の社会民主主義者のシルエット

 「過去からの小さな一頁」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1914年1月10日)

 「ヴィ・エヌ・グロッセル・ゼルツァー」(『ボリバ』1号、1914年2月22日)

 「ペ・ア・スルイドネフの思い出」(『ボリバ』第3号、1914年4月9日)

 「エス・エリ・クリャチコ」(『ボリバ』第4号、1914年4月28日)

 

    ◇ロシアとヨーロッパ

 「西方から東方へ」(『ルーチ』)

 「ロシアとヨーロッパ」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1914年6月2日)

 「マサリークのロシア・マルクス主議論」(『キエフスカヤ・ムイスリ』、1914年6月19日)

 「マサリーク教授のロシア論」(『カンプ』、1914年12月1日――執筆は戦争前)

 

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