第1章 バルカン問題

 今年[1914年]の8月31日、ある社会民主党の新聞はこう書いている。

「ロシア・ツァーリズムとその手先とに対して現在敢行されている戦争は、偉大なる歴史的理念を基調としている。偉大な歴史思想の厳粛な感情が、ポーランドと西ロシアの戦場を満たしている。大砲のうなり、機関銃の乱射、騎兵隊の突撃、これらすべては諸民族の解放という民主主義綱領の執行を意味しているのだ。フランスの資本やイギリスの恥じ知らずな商人政治家と同盟して革命を弾圧することに、もしツァーリズムが失敗していたなら、現在の血で血を洗う戦争は必要ではなかったであろう。なぜなら、解放されたロシアの人民は、この破廉恥で無益な戦争の遂行に同意を与えはしなかったであろうからだ。自由と権利という偉大な理念は、今や力強い武器の言葉で語っている。正義と人間性という理想に心が奮い立つ人なら誰でも、ツァーリの権力が破壊されて、抑圧されたロシアの諸民族が自らの自決権を再びわがものとすることを望まざるをえないのである」。

 この文章が掲載された新聞の名前はハンガリー社会民主党の中央機関紙『ネープサヴァ』である。ハンガリーといえば、その国内生活の全体が、少数民族に対する暴力的抑圧と労働者大衆の奴隷化、そして大土地所有者の支配層による財政的寄生と高利とに立脚している国である。それはまた、政治的盗賊が板についた生粋の地主貴族であるティサ(1)のような人物が牛耳っている国である。一言で言うなら、ハンガリーはツァーリズムのロシアに最もよく似た国なのだ。他ならぬハンガリー社会民主党機関紙『ネープサヴァ』紙が、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍の解放の使命について、こんな大げさな熱狂的表現をするはめに陥ったことは偶然ではない。いったい全体、ティサ侯以外の誰が、「諸民族の解放という民主主義綱領の執行」を成し遂げる使命をおびていようか? ヨーロッパにおいて権利と正義についての永遠の原理を保証するのに、いったい全体――不実な大英帝国の「恥じ知らずな商人政治家」とは対照的な――札付きの金権政治家からなるブタペストの支配徒党以外の誰がいるだろうか? 笑いは和解をもたらす。すなわち、インターナショナルの政策における悲劇的な矛盾は、哀れな『ネープサヴァ』紙の記事の中で頂点に達しているだけでなく、ユーモラスに克服されてもいる、と言うことができよう。

 現在の諸事件は、オーストリア=ハンガリーによるセルビアへの最後通牒によって始まった。自己の冒険を民族的目的でもって隠蔽しているセルビアや他のバルカン諸国の小君主の陰謀を擁護するいかなる理由も、国際社会民主主義は有していない。ましてや、犯罪的で狡猾なウィーンとブタペストの政府当局の民族政策に対して、熱狂的な若いセルビア人が血ぬられた暗殺でもって応じたからといって、われわれがそれについて道徳的に憤激する理由はなおさら存在しないのである。いずれにせよ、われわれにとっては、次のことにいかなる疑問もない。すなわち、ドナウの君主制[オーストリア=ハンガリー]とセルビア政府との間の歴史的紛争においては、実際の歴史的権利、すなわち発展の権利は完全にセルビア側にあるというのがそれである。ちょうど1859年にイタリアにその権利があったように。王室および皇室のチンピラ警察とベオグラード[セルビアの首都]のテロリストとの間における果たし合いの下には、カラジョルジェヴィッチ家[セルビアの王家]の強欲やツァーリ外交の犯罪行為といったこと以上のより深遠な基礎が隠されている。すなわち、一方の側は、生命力を失った多民族国家の帝国主義的な野心であり、他方の側は、民族的に細断されているセルビア民族を生命力のある統一国家に結合するための努力なのである。

 

※原注 教訓的なことは、オーストリア・ドイツの日和見主義者たちはいつでも、テロ的闘争手段に対する原則的反対者たるわれわれロシアの社会民主主義者よりも、ロシアのテロリストに対する共感を示してきたにもかかわらず、今や「謀略的に遂行されたサラエボでの殺人」に対して道徳的に憤激し、その道徳的はらわたを煮えくりかえらしていることである。これらの連中は、排外主義に溺れてしまい、この不幸なセルビア人テロリストが、ガブリロ・プリンチープ(Prinzip)(2)という名前で、ドイツのテロリストであるザント(3)とまったく同じ民族原理(Prinzip)を代表しているという事実をもはや理解することさえできないのである。共感の対象をザントからコツェブー(4)に変えるよう、この連中はわれわれに求めるつもりなのであろうか? そしてスイスに対し、暗殺者テル(5)のために建てられた記念碑を壊して、その代わりに、暗殺されたオーストリア皇太子の精神的先駆者の1人であるオーストリアの代官ゲスラー(5)の記念碑を建てるように、これらの宦官どもは勧めるつもりなのであろうか? 

 このような民主主義のイロハを忘れるために、われわれはかくも長い間社会主義の学校で学んできたというわけだ! もっとも、この完全な健忘症は8月4日の後にはじめて生じたものである。この運命の日以前には、ドイツのマルクス主義者たちは、南東ヨーロッパで実際に何が起っているかについて明瞭に理解していた。

南スラブ民族のブルジョア革命は順風満帆である。そして、サラエボでの銃撃――それ自身は行きすぎた無分別な単独行動であったとはいえ――は、かつてブルガリア人とセルビア人とモンテネグロ人とがマケドニアの農民のためにトルコの封建的搾取のくびきを粉砕した時の戦闘と同じ価値をもった一章である。現代の社会秩序において一民族が達しうる最高の目標、すなわち民族独立に到達しているセルビア王国内の同族兄弟に対して、オーストリア=ハンガリーにおける南スラブ民族が注目と憧れの念とを向けているということは、何か不思議なことであろうか? 他方で、ウィーンやブタペストの連中は皆、セルビアやクロアチア系の名前をもつ人々に対して、殴る蹴るの暴行を加え、即決裁判にかけて絞首刑にしている。……バルカン・スラブ民族の勝利以来、750万人の南スラブ民族は、自分たちの政治的権利を主張する上でますます大胆となった。そして、われわれの運命と結びついているオーストリア皇室がこの攻勢に抵抗し続けようとするならば、それは転覆されて、それとともに帝国が粉々に砕け散るであろう。なぜならば、このような民族革命が勝利に向かって前進することは、歴史的進歩と合致しているからである」。

 サラエボでの暗殺事件後の1914年7月3日に、『フォアヴェルツ』紙はこう書いていたのだ。

 国際社会民主主義が、そのセルビア支部とともにセルビアの民族的要求に対しあくまでも抵抗したのは、もちろんのこと、諸民族を抑圧し分断するオーストリア=ハンガリーの歴史的権利のためではないし、ましてやハプスブルク家の民族解放の使命のためでは絶対にない。1914年の8月までは、黒と黄色の御用文筆家を除いて、このようなことを一言半句でも洩らす者はいなかった。この点で、われわれはまったく異なった行動原理にもとづいていた。まず第1に、プロレタリアートは、民族統一のために闘争するセルビア民族の歴史的合法性に何ら異論がないにもかかわらず、セルビア王国の運命の現在の支配者の手にこの課題の解決を委ねることはできなかった。第2に、――そしてこの点の考慮はわれわれにとって決定的なのであるが ――ヨーロッパ革命を除けばヨーロッパ戦争を通じてしかセルビア人は民族統一に達しえないがゆえに、国際社会民主主義は、彼らの民族的事業のためにヨーロッパの平和を犠牲にすることはできなかったのである。

 しかし、オーストリア=ハンガリーが自己の運命とセルビア民族の運命の問題を戦場に持ち出してきた瞬間から、セルビアが勝利するよりもハプスブルク家が勝利した方が、南東ヨーロッパの社会的民族的進歩に対する打撃は比較にならないほど深刻であるということを、もはやいささかも疑うことはできなかった。そして、以前と同様、われわれの使命とセルビア軍の目的とを同一視するいかなる理由もわれわれにはないとすれば――この思想はまさに、戦時公債に対するセルビアの社会主義者ラプチェヴィッチとカツレロヴィッチの勇気ある反対投票のうちに体現されている――、セルビアの民族闘争に敵対しているハプスブルク家の純皇室的な権利や封建的資本主義の徒党の帝国主義的利益を支持する理由はなおさら存在しないのである。しかし、いずれにしても、オーストリア=ハンガリーの社会民主党――それは今や、ポーランド人やウクライナ人やフィンランド人、そしてロシア民族そのものをも解放するために、ハプスブルク家の銃剣に対し祝福を与えている――は何よりもまず、セルビア問題についての支離滅裂な自己の考えを清算しなければならないであろう。

※原注 この行動を十分に評価するためには、すべての政治的脈絡を想起しなければならない。セルビア人の秘密結社は、オーストリア=ハンガリーの教権主義と軍国主義と帝国主義の担い手たるハプスブルク家の皇族を殺害した。これを絶好の口実とばかりに、ウィーンの軍事政党は、外交史上最も恥じ知らずな最後通牒をセルビアに送った。その返答として、セルビア政府は大幅な譲歩をし、係争中の問題の解決をハーグ国際仲裁裁判所に委任する提案をした。その後で、オーストリアはセルビアに宣戦布告をした。もし「防衛戦争」という思想が何らかの意味をもつとしたら、疑いもなく、この場合のセルビアにこそあてはまる。それにもかかわらず、われわれの同志ラプチェヴィッチとカツレロヴィッチは、社会主義者としての義務に対する不動の確信をもって、政府への信任を断固として拒否したのである。バルカン戦争の初めの頃、本書の筆者はセルビアにいた。言語に絶するほどの民族的熱狂の中で、戦時公債に対する投票がスクプシチナ(国会)で行なわれた。この投票は点呼で行なわれた。200人の「賛成」に続いて、死のような沈黙の中を、社会主義者ラプチェヴィッチによるたった一つの「反対」の声が響いたのである。この抵抗が有する道徳的力を誰もが感じないわけにはいかなかった。そしてこれは、けっして消えることのない記憶として、われわれの脳裏に焼きついたのである。

※22年ロシア語版原注 ラプチェヴィッチは、より進んだ必須の結論を革命的見地から引き出すことができず、それゆえ発展の成り行きによって後に追いやられてしまった。現時点においてラプチェヴィッチは、自己のグループとともに第2半インターナショナルに属している。

 しかしながら、問題は1000万人のセルビア人の運命にのみかかわっているのではない。ヨーロッパ諸民族の衝突はバルカン問題の全体を改めて提出した。1913年のブカレスト講和は、近東における民族問題も国際政治上の問題も解決しなかった。2つのバルカン戦争に参加した諸国の一時的かつ完全な消耗から生じた新しい混乱をしばらくのあいだ保証しただけである。

 ルーマニアが今後とる立場は、現在きわめて鋭い問題となっている。諸事件の展開の中で、その50万人の軍隊がはるかに重要な要素になりうるからである。ローマン語系民族に対するルーマニア住民の、少なくとも都市住民の共感にもかかわらず、ルーマニアはオーストリア・ドイツの政策に従ってきた。この事実は、ホーエンツォレルン家の皇族がブカレストの王位を占めているという皇室上の理由からよりも、むしろロシアの侵略という直接的な脅威からきていた。1879年に、ロシアのツァーリは、露土「解放」戦争におけるルーマニアの支援へのお礼として、ルーマニア領の一片(ベサラビア)を奪い取った。この雄弁な事実は、ブカレスト・ホーエンツォレルン家の皇室上の共感に十分な支えを与えるものであった。しかし、マジャール人のハプスブルク家の徒党は、トランシルバニア――ロシア領ベサラビアの75万人に対して300万人ものルーマニア人を数える――における脱民族化政策によって、さらにまた、オーストリア=ハンガリーの大土地所有者の意志が押しつけたルーマニア王国との通商条約によって、すっかりルーマニア人を憤激させてしまった。そして、私の友人ゲレアとラコフスキー指導下の社会党による勇敢で断固としたアジテーションにもかかわらず、ルーマニアが自国の軍隊をツァーリズムの軍隊に合流させたとすれば、それは、あげてオーストリア=ハンガリーの支配層に責任があるのである。彼らはここでも自分でまいた種を刈り取ることであろう。しかし、歴史的責任の問題によっては事はかたづかない。明日か、1ヵ月後か、いや半年後にでも、戦争はバルカン諸民族とオーストリア=ハンガリーの運命の問題全体を提起するであろう。――そして、プロレタリアートはこの問題に対する自分たちの回答をもっていなければならないのである。

 19世紀全体を通して、ヨーロッパ民主主義はバルカン諸民族の解放闘争に不信の目を向けていた。なぜなら、トルコの犠牲によってロシアが強化されることを恐れていたからである。こうした懸念について、カール・マルクス(6)は、1853年のクリミヤ戦争前夜にこう書いている。

「セルビアとセルビア民族が強固に確立されればされるほど、トルコ領内のスラブ人に対するロシアの直接的影響力はますます後景に押しやられるであろう、と断言することができる。というのは、国家としてのその特別な地位を確保することができるためには、セルビアは、西ヨーロッパから、その政治制度や学校……などを借用しなければならないからである」(7)

 この予言は、ブルガリアのたどった運命によって鮮やかに裏書きされた。ブルガリアはバルカンにおけるロシアの前哨地としてつくられた国である。しかし、ブルガリア民族が多少なりとも確固たる地歩をしめるようになるや否や、ロシアのかつての手下であるスタンボロフ(8)の指導下で強力な反ロシア政党が出現した。そしてこの党は、この若い国の全対外政策にはっきりとした刻印を押した。その上、ブルガリアにおける政治的諸党派の全メカニズムは、ヨーロッパの2つの連合体の間で、最終的にどちらか一方の水路にはまることなく、うまく立ち回れるように組み立てられているのである。ルーマニアはオーストリア・ドイツに、セルビアは1903年以来ロシアに従ってきた。なぜなら、ルーマニアが直接にロシアの脅威を受けていたのに対し、セルビアはオーストリアの重圧の下にあったからである。したがって、南東ヨーロッパ諸国がオーストリア=ハンガリーから独立すればするほど、それらの諸国はますます断固としてツァーリズムに対する自国の独立を守ることができるのである。

 1878年のベルリン会議でつくられたバルカン半島における均衡は矛盾に満ちたものであった。民族誌学の人為的な国境によってばらばらに分断され、ドイツの苗床から移植された王朝の支配下に置かれ、列強の陰謀によって手足を縛られているバルカン諸民族は、よりいっそうの民族解放と民族統一に向けた努力を倦むことなく続けざるをえなかっった。独立ブルガリアの民族政策の注意は自然と、ブルガリア人によって植民されたマケドニアに向けられた。そこは、ベルリン会議によってトルコの支配の下に放置されていたからである。反対に、セルビアは、ノヴィ・パサール県を除けば、トルコの中にはほとんど何の求めていななかった。彼らの自然な民族的関心は、オーストリア=ハンガリーとの国境の向こう側、ボスニア=ヘルツェゴヴィナとクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアの方にあった。ルーマニアは南部にはいかなる関心もなかった。そこでは、セルビアとブルガリアによってヨーロッパ・トルコから切り離されていたからである。ルーマニアの民族的膨張は、北西部と東部に、すなわちハンガリーのトランシルバニアとロシアのベサラビアに向けられていた。最後に、ギリシャの民族的膨張は、当然のことながらブルガリアの場合と同様にトルコと衝突した。それゆえ、ブルガリアとギリシャは、その民族的途上において、セルビアやルーマニアと比べてはるかに弱い障害しか有していなかった。

 ヨーロッパ・トルコの人為的維持を目的としたオーストリア・ドイツの政策は、ロシアの外交的陰謀のおかげで破綻したのではない。もちろんその種の陰謀に不足してはいなかったが。そうではなく、それは発展の不可避的過程のおかげで破綻したのだ。この不可避的過程が、資本主義的発展の道へと入り込んでいたバルカン諸民族の民族国家としての自決の問題を歴史的日程にのぼせたのである。

 第1次バルカン戦争はヨーロッパ・トルコを片づけた。それによって、ブルガリアとギリシャが抱えていた問題の解決にとっての前提条件がつくりだされた。しかし、オーストリア=ハンガリーの犠牲によってしか民族的目標を成就し得ないセルビアとルーマニアは、その膨張の努力を南方へと向けざるをえず、そして両国はブルガリア系民族の地域の犠牲によって償われたのである。マケドニア内のセルビア領、ドブルジャ内のルーマニア領がそれである。これが、第2次バルカン戦争とその結果結ばれたブカレスト講和の意味である。

 オーストリア=ハンガリー、この「中央ヨーロッパにおけるトルコ」ともいうべき存在は、ただそれだけで南東部諸民族の自然な自決のためのいかなる余地も残さない。それは、これらの諸国を互いに絶え間なく争わせ、それぞれが外国の支援を求めざるをないように仕向け、もってそれらの諸国を列強諸国の各連合体の道具と化しているのである。このような混沌状態のもとでのみ、ツァーリの外交はバルカン政策の網――その最後の目はコンスタンチノープルである――を張りめぐらすことができるのだ。そして、バルカン諸民族の経済的・軍事的連邦だけが、ツァーリズムの強欲に対する難攻不落の砦となりうる。ヨーロッパ・トルコが片づけられた現在、南東ヨーロッパ諸民族の連邦の前に立ちふさがるのはオーストリア=ハンガリーなのである。もし、ルーマニア、ブルガリア、セルビアの各国がそれぞれ本来の国境線を見出だして、ギリシャやトルコとともに、経済的共同を基礎にした防守同盟へと統一されるならば、それは究極的に、バルカン半島――それは、定期的な爆発でヨーロッパを脅かしていたが、ついにヨーロッパを世界的な破局に引きずり込んだ魔女のかまどである――に平和をもたらすであろう。

 ある時期まで社会民主党は、資本主義諸国の外交官たちのバルカン的手法、すなわち、会議や秘密条約の中で、一つの穴をふさぐために別の大穴を空けるという方法に甘んじることを強いられてきた。この手法が最終的解決を先送りしているかぎり、社会主義インターナショナルは、ハプスブルク家の遺産がヨーロッパ戦争によってではなく、ヨーロッパ革命によって清算されることに期待することができた。しかしながら、戦争が全ヨーロッパを均衡状態から引きずり出し、列強の野獣どもが――民族的民主主義の原理にもとづいてではなく、軍事的力関係にもとづいて――ヨーロッパの地図を改めて塗り替えようとしている現在、社会民主党は、自由・平和・進歩に対する最も重大な障害物の一つが――ツァーリズムやドイツ軍国主義と並んで――国家組織としてのハプスブルク君主制であるという事実を明確に理解しなければならない。ガリチアにおけるダシンスキー指導下の社会主義グループによる冒険主義の犯罪性は、ポーランド問題を社会主義の事業より優先させたことにあるだけでなく、ポーランドの運命をオーストリア=ハンガリー軍とハプスブルク君主制の運命に結びつけたことにもあるのだ。

 ヨーロッパの社会主義プロレタリアートは、問題のこのような解決方法を採用することはできない。彼らにとっては、統一し独立したポーランドの問題は、統一し独立したセルビアの問題と同一線上にある。われわれは、南東部と全ヨーロッパにおける現在の混沌を永続させるような方法でもって、ポーランド問題を解決することはできないし、するつもりもない。われわれ社会民主主義者にとって、ポーランドの独立は両方の戦線における独立、すなわちロマノフ家とハプスブルク家からの独立を意味する。われわれは、ツァーリズムの圧迫からポーランド民族が解放されることを望むだけではなく、セルビア民族の運命がガリチアのポーランド貴族に左右されないことをも望んでいるのである。現在のところ、ボヘミアやハンガリーやバルカン連邦に対する独立ポーランドの関係がどのような形態をとるかということについて検討する必要はない。しかし、次のことは完全に明らかである。すなわち、ヨーロッパへのツァーリズムの企みに対しては、ドナウ川周辺およびバルカン半島における中小規模の諸国家の集合体の方が、ヨーロッパの平和に対する絶え間ない陰謀によってしか自己の存在理由を証明しえない今日の混乱し弱体化したオーストリア=ハンガリーよりも、はるかに強力な障壁を打ち建てるであろう。

 先に引用した1853年の論文の中で、東方問題に関しマルクスはこう書いている。 

「すでにみたように、ヨーロッパの政治家たちは、どうしようもない愚鈍さと、硬直した因襲、そして伝来の精神的怠惰の中で、ヨーロッパ・トルコをいったいどうするべきかという問題に対する答えを出すいかなる試みからも尻込みしている。……コンスタンチノープルからロシアを遠ざけようとして用いてきた方法が、まさにコンスタンチノープルへのロシアの進出を駆り立ててきた大きな推進力なのである。その方法とは、現状維持についての一度も貫徹されたことのないからっぽな理論である。この現状とは何か? それは、トルコのキリスト教信者にとっては、トルコによる抑圧の永続化以外のなにものも意味してはいない。そして、彼らがトルコによる支配のくびきの下にあるかぎり、彼らは、6000万人のギリシャ正教徒の支配者であるギリシャ正教会の首長[ツァーリ]のうちに、自分たちの本来の庇護者にして解放者を見い出すのである」(9)

 ここで、トルコについて言われていることは、今日、オーストリア=ハンガリーについても大いにあてはまる。バルカン問題の解決は、オーストリア=ハンガリー問題の解決ぬきにしては考えることもできない。なぜならば、両方とも、同一の定式のうちに包含されているからである。すなわち、ドナウ=バルカン諸民族の民主主義連邦がそれである。 

 「しかしながら、諸政府がその旧式の外交によって困難を解決することはけっしてないだろう。他の多くの諸問題の解決と同様に、トルコ問題の解決もまた、ヨーロッパ革命に残された課題なのである」(10)とマルクスは書いている。そしてこの主張は、今日においても完全に有効である。しかし、数世紀にわたって何重にも積み重なったこの困難が革命によって解決されるためには、まさにプロレタリアートはオーストリア=ハンガリー問題の解決へ向けた自らの綱領を持っていなければならない。そして国際プロレタリアートは、この綱領を、オーストリア=ハンガリーの現状を維持しようとする臆病で保守的な配慮に対置するのと同じくらい強力に、ツァーリズムの侵略の企図に対置しならないのである。

 

  訳注

(1)ティサ、イシュトヴァーン(1861-1918)……マジャール人貴族地主出身の保守政治家で、当時のハンガリーの首相。1918年のハンガリー革命で殺される。

(2)プリンチープ、ガブリロ(1894-1914)……第1次世界大戦の発端となったサラエボでの暗殺事件の首謀者。当時は学生だった。

(3)ザント、カール・ルードヴィヒ(1795-1820)……ドイツの民族主義的自由主義組織であるブルシェンシャフト左派の一員で、1819年にコツェブーをロシアの手先として暗殺した。

(4)コツェブー、フリードリヒ・フェルディナンド・フォン(1795-1819)……ドイツの文学者で、1781年にロシアの官吏となり、1817年にロシア政府の命でウィーンに来て、ドイツの政情を探り自由主義を批判した。1819年にマンハイムにてザントに暗殺される。

(5)テルとゲスラー……テルは、ドイツの文豪シラーの代表的戯曲『ウィルヘルム・テル』の主人公で、オーストリアの支配下にあったスイス3州がオーストリアの支配に立ち上がるさいの中心人物。ゲスラーは、そこに登場するオーストリアの悪代官。テルに強要して、テルの子供の上に置いたりんごを弓矢で射たせるシーンは有名。

(6)この部分は正しくは、フリードリヒ・エンゲルス。

(7)エンゲルス「ヨーロッパ・トルコはどうなるべきか?」、邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第9巻、33頁。

(8)スタンボロフ、ステファン(1854-95)……ブルガリア公国の君主アレクサンドル公の死後、摂政政治をしいてブルガリアを指導した。1894年に政権を追われ、1895年に暗殺された。

(9)邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第9巻、30〜31頁。

(10)同前、32〜33頁。

 

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